鉄腕稲尾和久の一周忌に思う

明日は元プロ野球投手・稲尾和久の一周忌である。
ご存じのように彼は偉大な記録を残した。
私たちに伝説を残した。
私たち野球愛好者に深い記憶を植え付けた。画像

稲尾については、自伝もあり、はたまた、映画にもなった希有な男のことを
あれこれ書く積もりはないが、わずかな私とのつながりと思い出を記してみた。
画像

彼の略歴を並べてみる。
昭和12年(1937)6月10日、別府市で7人兄弟の五男として生まれる
昭和22年(1947)10歳 友人らと三角ベースで遊び始める註1
昭和25年(1950)13歳 別府市立第三中学校(現在・中部中学校)入学。
               野球部に入部し註2),秋から正捕手
公式サイトを参考にした。
1953(昭28) 16歳 別府緑丘高(現芸術緑丘高)商業科入学。秋から投手転向
1955(昭30) 18歳 夏の県大会は準決勝で佐伯鶴城に敗れる。西鉄入団が決まる
1956(昭31) 19歳 3月開幕戦でデビュー。5月高橋戦で初勝利。21勝で新人王
1958(昭33) 21歳 2年連続MVP。日本シリーズ4勝で「神様、仏様、稲尾様」
1970(昭45) 33歳 初采配のシーズンで最下位
1980(昭55) 43歳 福岡への球団誘致活動を始める
1993(平5) 56歳 競技者表彰で野球殿堂入り
2007(平19) 70歳 別府市民球場と稲尾記念館オープン。11月13日悪性腫瘍のため急逝

彼の生涯記録を見ると

別府緑ケ丘高校(現芸術緑丘)から56年西鉄に入団。
56年に21勝(6敗)、防御率1・06で新人王。
56年から3年連続の日本一に貢献。61年には42勝(14敗)。
新人王、MVP2回、最多勝4回、最優秀防御率5回。
鉄腕の「異名」。69年現役引退。
通算成績は276勝137敗、防御率1・98。
(180センチ、94キロ。右投げ右打ち、血液型B)

と、ものすごいことになっている。
偉大な投手の一人である、いや、あった、ことには間違いない。

稲尾和久とのつながり。
(註1)私は昭和10年生まれ。つまり彼より2歳年上である。
  神様、仏様と比ぶべくもないことは百も承知しているが、同じ、学校区にいた。
  当時、新制中学校2年(昭和24年)の前半までは中学全体が小学校に間借りしていたのである。

  当時の遊びはそれこそ、三角ベースの野球だった。
  この場合、ボールは軟式テニスの柔らかいボールを使っていた。
  素手で手軽にやれるからということだった。

  メンバーが足りないとき校庭を探し回り補充してきた。
  中学生の仲間が少ないある時、やけに背の高い小学生が上手に球を扱っていたのを見て、強制的に引っ張り込んだ。
  これが稲尾だった。

  小学生のくせに(その時思った)実に上手く、強力な味方になった。
  このことは、記憶の底に残っている。

(註2)中学校の新しい校舎が出来て間借りしていた小学校から、遠路、机や椅子を一人一人が担いで運んだ。
  同窓会では今でもこの椅子運びが話の種になる。
  
 それはおいといて、新しい学校の校庭、グラウンドはその後数年掛けてつくりあげていった。
  当然、野球部員であった私たちも鍬は鎌、スコップを使って野球が出来るグラウンド作りに頑張った。
  当時、今の校庭の北側(高校より)は草木が残っており、ボールを打ち込むと全員でボール探しということもしばしばだった。
  こういったグラウンド状態の時、昭和25年、「三中」に入学して来たのが稲尾だった。
  私は三年生だったから夏までの部活で終わり、同じ野球部でプレイしたのは実質半年。
  短い関わりだった。

  それ以後、全く関わりがなかったが、昭和31年のデビューと年間成績でを見て、あの稲尾が、という驚きとともに大活躍に喝采したのものだった。

  一周忌を前に、稲尾記念館に献花台に、小さな花を供えた。画像
  記帳簿に、中学校当時の野球部の監督O先生のメッセージとサインがあった。
  はばかりながら、その横に、私もメッセージとサインを残した。
  「偉大な後輩 
   永遠に栄光あれ!」、と。
                                    (謝敬称略)
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この記事へのコメント

N・G
2008年11月13日 15:58
大仏さんのタマキチは神様・仏様と少年野球をやっていた時代からだったのですね。しかも、大仏さんが稲尾さんの先輩だったとは、恐れ入りました。
だいぶつ
2008年11月13日 16:49
野球は小学校の時からです。今では珍しくもない早い年齢からの修行的(?)なものとは異なって、遊びの種類が少なかった、お金がかからなかった、好きだった、が原因でした。そのうちに時来れば、神様、仏様とキャッチボールでもしていることでしょう。

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