ベースボール そのⅠ(セピア色の野球)

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(2011年10月実相寺球場 グッドショット!!)

日米プロ野球のオールスターも終わり、
シーズン後半に入った。

今年のプロ野球では2000本安打達成者が続いた。
稲葉、宮本両選手、素晴らしい記録達成、お目出度う。
その後、小久保選手も達成!


現在、私は自分でプレイすることを休んでいる。
もちろん、草野球での話だけれど--

年初から腰が原因で脛や脚全体の調子が良くない。

切歯扼腕、まさにこの状況が今の私の毎日。

私は現在、市内の古希の野球チームと
もう一つ大分の軟式野球チームに所属している。

年会費だけは収めてはいるのだが
実際に、試合は勿論、練習にも参加出来ていない。

それでも今年の初めから早起きをして
海岸まで片道600メートルをウオーキング。
朝日を拝み、日の出の写真を撮って、
ラジオ体操の仲間に入れて貰い
第一、第二体操を、脚をかばいながら運動。

ただ、両足跳び、片足跳びは、足腰をかばってスルーした。

そうこうしているうちに5月に
右膝の外側の半月盤を痛めた。

まさに、泣き面に蜂!!


自分自身がプレーができないのでもやもやしている。
せめても、と、私と野球の関わりを書いてみた。


①セピア色した野球への憧れ
 いつの頃から野球を始めたのか定かでないが、
終戦(小生の小学校4年)以降であることに間違いはない。
進駐軍(別府に米軍のキャンプ地があった)の兵士の野球を見たことがあるのかもしれない。
終戦直後は日本全体が貧しく、打ちひしがれた心と物の再構築を考える余裕などはさらさらなく、いかにして毎日を生きていくかのみに腐心していた。

勿論、当時小学生の私はそんなことを考えるまでには至らない年齢だったから、生活難、生活苦の味は憶えていない。
といって、決して裕福な家庭というわけではなかったし、日本全国が貧しい中に生きている状況だったからとりたててどうという事はなかった。

しかし、終戦直後はそれこそ物が無い。

遊びの中で足りない物、無い物は自分たちなりに、
何とか工夫し、作り、使ったりしたことは覚えている。

たとえば、野球のボール(軟式)については
芯のゴムが戦時中から貴重なものだったから、
なかなか手に入らなかった筈である。
布の中に何かの芯をいれ、紐でぐるぐる巻にしてボールを作ったような記憶がある。
グラブは勿論、手製、布製。
これは母親に作って貰ったので、はっきり憶えている。
ミットの方が指の数が少ないので作りやすかったようである。
母親は自分の着物の帯芯を使っていたようだった。

 小学校6年(昭和22年=1947年)のとき、父が皮のグラブを買ってくれた。かなり、無理をしたのではないかと当時でも思った。

 別府市立北小学校(現在別府トキハの北側駐車場の所に校舎が2階建3棟)に新制中学校の市立第三中学校(現在の中部中学校)が間借りしていた。
その中学の先輩たちが野球をしているのをそばで見ていた。
中学に入ったら野球をしようとその時思ったに違いない。
大切な皮のグラブを手にして思ったのだろう。


ところが、こともあろうに、その皮のグラブをなくしてしまった。
というよりも、盗られたのだ。
親父に言うわけにもいかず、大変なショックを受けたのを今でも思い出す。                                     (つづく)

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この記事へのコメント

宝塚のコーちゃん
2012年08月21日 21:34
腰、膝の状態いかがですか?早く良くなってベストショットの金本選手の様な豪快なスイングが出来るようになるといいですねリハビリ頑張って下さい。セピア色の野球の続き楽しみにしています。私も子供の頃、竹バットでの三角ベース野球で無我夢中になって遊んだ思い出が甦りました。
だいぶつ
2012年08月21日 23:46
体調の件、いろいろと気に掛けて頂き、恐縮です。まだ、野球が出来る状態ではありません。徐々にということで、諦めることなく、努力してまいります。5月からあまり動かない所為か、下腹部がふくよかになってきました--いけないことですね。

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